飾らないワタシの地味日記

道端に捨てられた詩を拾います。(20)

わかりやすく、と

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言葉の情報を伝えるための道具としての機能ばかりが強調されすぎていると感じる。
日々、誰かに何かを伝えるために言葉は紡がれているし、意味の見出しづらい言葉の並びに 対する人々の視線は冷たい。プレゼンでもレポートでも、Twitter でも、インスタのキャプシ ョンでも、大切なのは伝わりやすさです、という圧力に押しつぶされながら我々はカタカタ と文章を書いている。そんな言葉の使われ方に対して私はどうしても歯がゆさを感じてし まう。意味だけを追求した言葉は誰にとってもわかりやすいけれど、言葉にできることはま だ他にもあるはずだ。メールの定型文や連絡事項の羅列だけではなくて、言葉には我々をも っと自由にしてくれる力が備わっていると思う。簡潔な文字列だけでは拾いきれない小さ な凹凸を表現できるだけの可能性がそこにはある。
意味だけを追求して余計な部分を取り除き「うれしい」とか「好き」とか「孤独」とかい う、簡単で分かりやすい言葉に感情を言い換えたとき、他人に伝えることには役に立つが、 自分と向き合うことはできない。単純で分かりやすい言葉に変換されたそれらは、本当にそ の言葉通りの気持ちだったのだろうか。本当はもっと豊かで深くて生き生きしていたので はなかったか。
だからこそ私は、我々がもっと自由に言葉をつかえたらいいのに、と思う。画家が透明の リンゴを描くみたいに、彫刻家が人間に羽を生やすみたいに、言葉と言葉を自由につなげて 誰に伝わらなくてもいいから自分の思うそのままを言葉にすることができたなら、我々は もっと自分の感情や考えに肯定的になれるはずだ。自分には自分だけの言葉があってもい いのだということを伝えられれば、と思う。