飾らないワタシの地味日記

道端に捨てられた詩を拾います。(20)

書くしかないので書く

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ぐるぐると目の前を漂うのは蜘蛛の糸である。あなたは暗闇の中でも、その銀色の糸をしっかりと見つけることができる。てらてらと輝くそれは、いったいどこからの光を反射しているのだろう。天の川のような銀糸。あなたには口を少しだけ開けて呼吸をする癖がある。わずかに白い歯が見えたと思うと、するすると糸を吸い込んでゆく。滞りなくゆっくりと。目の前の糸群は着実にあなたの体内に含まれていく。するととたんに、暗闇の行き止まりがあなたの身体を包み込もうと向こうから動き出す。するすると吸い込まれる糸、ずるずると引き寄せられる行き止まり。わたしの気がつかないうちに、あなたは静かに小さくなって、ちっぽけは蜘蛛になっている。

 


 


わたしはものを書くものだ。あなたの吸い込んだ糸をむしゃむしゃと食んで拡大する、「ものを書くもの」である。

 


 


今日は学校に行かなくてはいけなくて、だから早くに起きて顔を洗って歯磨きをしてコーヒーを飲んでまた歯を磨いた。歯を磨く時間はすきだ。全てを清算してくれるような気がする。熱い口内と朝の空気のコントラスト。眠気を吹き飛ばすような爽やかなミントの香り。これから向かう外の世界とわたしの境界線をぼやかしてくれるような強烈な刺激。その刺激を纏ったまま、わたしは小さく呼吸をする。

 


2月の後半。くもり。中途半端な季節だ。適度にやわらかい冷気の中では、自分がこれから夏に向かっているのか、冬に向かっているのか、そういうことが時々わからなくなってしまう。アーケードを抜けて、バス通りを横断する。老人が横断歩道を無視して歩いて行くのが見える。杖をついた老人ほど、横断歩道をわたらないのはなぜだろう。そこまで行くのが手間なのか、それとも、「まだ死にたくなかったのに」と思いたいだけなのだろうか。わたしも老人も、自分の生きた時間をもっともらしく飾り付けるのに必死で大変だな、と思う。

 


 


停車場でバスを待つ。バスは来ない、ずっと来ない。あなたはだんだんと不安になる。来るべきはずのバスが来ない。あなたは周りを見渡す。老人の白髪のすきまに小さな蜘蛛がかさかさと動くのが見える。お尻から糸を出している。とたんに、白髪がすべて銀糸のように思えて、あなたは目を擦った。相変わらず、蜘蛛は糸を吐き出している。あんなに小さな身体のどこから、あんなにたくさんの糸がでるのだろう、とあなたは不思議に思う。

 


 


あなたはずっと眠るのがすきで、だから休みの日には一日中布団から起き上がれなくてもどうやら幸せらしかった。今日も昨日も過ぎ去って、あなたはほんの僅かに開いた口から少しずつ世界を食べて、世界を吐き出す。だから何も食べなくても生きていける。あなたの家には同居人がいる。同居人はとても愉快な人だ。あなたと違って、朝に起きて、ご飯を食べて、外へ出かける。あなたはそんな同居人を横目にずるずると布団の中に帰って行く。だからあなたは太陽の出ている間はたいてい一人で眠り、時々のそのそと起き上がって世界をまたひとかけら食べた。今日のは『雲林地帯に住むタランチュラ』、昨日は『赤道と鏡の関係性について』だった。あなたは訝しげに文字列を口に含み、がしがしとかじって、んくんくと飲み込む。あまり楽しそうではないけれど、あなたにとっては大事なことだった。

 


 


何かがおかしかったんです、去年の3月からでした、とわたしが告げると、先生は真剣そうな顔をして頷いた。わたしが真剣そうに話すと、先生は真剣そうに頷く。わたしが可笑そうに話すと、先生は可笑そうに頷く。変な人だな、と思う。中身なんてないんじゃないか。

 


「それで、どうなんですか、わたしの身体は」

 


わたしはまた真剣そうに聞いてみる。先生は眉間にいっそう深い皺を刻んで、ひとつコホンと咳をしていう。

 


「蜘蛛がね、いるのですよ。それはいいんです。蜘蛛というのはいい生き物で、つまり、有益な虫なのですよ。けれどもあなたさんの場合にはね、それが、あなたのお腹の中にいるというのが極めてまずい。」

 


外側で有益なものが、内側でも有益とは、これはまあ限りませんからね、と先生はいった。自分の言葉がやけに気に入ったらしく嬉しそうだった。わたしは、先生への信用がすっかり消えてしまったので、蜘蛛のことも体のことも、とりあえずは置いておこうという気持ちになってきた。それに、先生の話す言葉のリズムは愉快で、軽快だった。先生のことは好きではないけど、先生の言葉がもつ音は好きだと思った。

 


 


 あなたは大学で講義を受けながら、自分の体の中に巣ぐう蜘蛛について考えた。3月。桜の蕾が膨らむ下旬。初春。それは友人が死んだ季節の名前だった。あなたは自分が置いて行かれたような気になって、身勝手に泣いた。文字通り、3日三晩泣いた。自分の無責任さを呪いつつも、同時に、自分の無力さに慰めを求めた。「わたしはちっぽけな人間で、だからすべての人間を支えて生きることはできない」。あなたはその言葉を繰り返し唱えて、ノートに書いて、そうやって自分だけのバイブルを作った。うそをつきすぎて、真実と虚偽の境目が曖昧になったあの羊飼いみたいにあなたも誰かに罰せられることを望んでいた。あなたはそれでも生きなくてはならなかった。ガルシア・マルケスの小説に出てくるエステバンのように、主体性を欠いて死んでいくのは嫌だと思った。

 

 ・

 

 去年の3月から一年が過ぎて、今年の3月がやってくる。人を愛したり、愛さなかったりして、わたしはいくつもの季節をゴミ箱に放り投げた。ゴミ箱からは、くしゃくしゃに丸められた桜の呻き声が聞こえる。海水の腐った臭いがする。萎びれた皮カバンのような色になった雪が、溶けることもできずに春を待っている。わたしは今ここで息をしているわたし個人の身体に対して具体的な意思を何一つ持ち合わすことができずにいる。毎朝起き上がることはできる。ホットケーキを焼いてマキネッタでコーヒーを淹れて、そうしてそれらを胃に流し込んで生きていくことができる。ひどい味だ、ビニールみたいに無機質だ。それでもそれを無理やり流し込む。電車にだって乗る。つまらない講義だってしっかり鉛筆を握って聞いている。長いあいだ眠っていると、そうしたことができてしまう。ただ流されていくように、大きな波に運ばれていく空き瓶のようにわたしはただただ息を吸って吐くだけを繰り返して繰り返してそこで眠っていた。

 

 ・

 

 蜘蛛はあなたの中で大きくなる。あなたが嫌いな世界をむしゃむしゃと食べるたびに、わたしもまたそれを食べた。ひどい味だ、ビニールのように無機質だ。あなたは時々、パンケーキやカプチーノをまずそうに口に入れた。かわいそうに。あなたの嫌いな世界を食べて、わたしはあなたのための世界を紡ぎたい。そうやって、わたしは大きくなる。

 

 ・

 

「・・・。」

 

「それで、どうなんでしょう、レントゲンの結果は」

 


「あなたの中には・・・これは大変言いづらいんですけどね、いや、しかし、これがわたしの仕事ですから。なんとも」

 

「それで、何が見えたんですか」

 

「街、いや、山、海のような、つまりはですね、そこには世界があるのですよ。あなたのお腹の中にね。ええ。」

 

「・・・。」

 

 ・

 

 わたしはあなたのために世界を紡ぐ蜘蛛になる。外も内もぜんぶ包み込むような世界。