飾らないワタシの地味日記

道端に捨てられた詩を拾います。(20)

幸せになりたいよな

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こんな風に愛したいとか、こんな詩が書きたいとか、こんな風に死にたいとか、そういう抽象画みたいな言語しか話せなくなる時がある。暗いよりは温かく、浅いよりは深く、醜いよりは美しく、みたいに。でも例え、完璧な抽象画が完成したとして、そのモチーフは完璧な現実だろうか。完璧な観念や、価値観や、人間や風景が存在しないみたいに、完璧な世界はきっと存在しない。抽象的な列車が走るのは偏見ででき上がった線路の上だけかもしれず、それらは不完全で、未完成で、アドホックに敷き続けなければならない線路だ。老朽を許さず、常に先を見続けなければ、沈む列車、腐る線路、それらは化石になるのだ。わたしはまだ未熟で、学問も十分にできてない。虚構と現実の狭間で揺れ動くのは、わたしのメトロノーム。でも、だからこそ、見守って欲しいのです。わたしには時々どうしようもなくなって、叫べず、泣けず、喚くこともできずに、文学も、絵画も、宗教も、音楽も、機能主義も、中島敦も、高野悦子も、人文学も、社会学も、すべてから目を伏せて、立方体を頭から被るようにしてしか眠れない夜もあります。それでも私は学問をしたい、文学がしたい、暖かいココアを飲みながら君と談笑する夜が好きなのです。幸せになりたい。私たちはみんな幸せになりたいのです。

アイデンティティの再構築と置き去りの魂

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私しか、私が存在していることを知らない街で暮らした。雑踏の中、地下鉄のホーム、人のいないお寺の境内で、私は私の存在を認めてあげなくてはいけなかった。そうでなければ、この体は、この声は、この魂は、すぐにぽろぽろと崩れ落ちてしまっただろう。気圧によって、なんとか形を維持してきた海水が、宇宙空間で自由奔放に泳ぎ出す、そんな感覚。友人のいない街、誰も私を一つの型に押し込めない街。手を伸ばして、私のアイデンティティを掴み出さなくてはいけない。どれが私を構成する要素たりえるだろうか、一冊手にとってはパラパラとページをめくり、落胆し、棚に戻してゆく、そんな毎日。旅をして、部屋の窓から見える景色が変わるたびに、「わたしとはいったい何者なのか。」という問いが知らない街の香りとともに部屋に入ってくる。昔の街に置き去りにされたままの私の魂を、ただじっと目を凝らして待ち続けている。私の心はまだ、あの遠い街にある。湯煙と硫黄の香りのする街、最北端のあの一面の牧草地。私の魂の一部はそこで地縛霊になるらしい。躍起になって探す、私の構成要素。ここで感じたこと、浮かんだ言葉、口から出た文法、それらすべてが私を私たらしめているのかもしれない。そう思うと、私の心臓はどくどくと激しく脈打ち、血液を回し始め、ぐわんぐわんと視界は揺れる。まるで虫眼鏡を通して世界を見ているようだ。視界は狭いのに、明瞭度はやけに高い。くっきりと見えているのに、それは世界のほんの一部でしかなく、全体像は依然暗闇の中。おぼつかない足取り。すべてを拾い上げて記そうだなんて、人類には無理なのかもしれない。歴史書に記されていない人間が昔生きていたみたいに、日記に記せない私の些細な喜びもそこに存在していることをどうかわかってほしい。 

勘違って名前をつけてしまったから

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本来、物事はグラデーション 、なのにぼくたちは、勘違って、君を、ぼくを、名前で呼んでしまった。だから僕たちは、いつまでもいつまでも、不安で、不安で、仕方がないんだ。

 

 

もともと、僕たちは物事をはっきり区切ることなんでできないんだ。虹を見つけた時、きみはどこからどこまでが青色だの緑だの、線引きできるのだろうか。そんなふうで、無力な僕たちは、愛と同情の線引きすらままならない。やれ、会いたい、やれ、キスがしたい、そんな名前の付いたわかりやすい感情が、僕たちの関係を強固にしているんだと、本気で信じられるのかな。きっと、僕たちの距離感は、立場は、お互いを想う時の感情は、そんなに単純なものじゃないのだと、ぼくは思っているのだけれどね。

「はい」は一回ね

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言葉にしなくちゃ伝わらない、と誰もが言って、わたしが、「わかった。わかった。」と2回繰り返すたび、わかってないじゃないの、と叱られる。わたしが考えているということ、ずっとずっと考え続けているということをあなたは知らないのだろうね。そして、あなたがずっとずっと考え続けていることもわたしは知ることができない。悲しいけれどね。知ることができないんだ。あなたの脳内の細胞がいくつあるかとか、昨日見た映画の退屈さとか、金魚が死んだこととか、わたしは知ることができないんだ。わたしとあなたが同一の個体ではないということを、わたしもあなたも知っているね。それは、知っている。でもどうして、「わかって欲しい」となるのだろう。言わなくても伝わることなんて、Twitterの文字数制限より少ないのに。悲しいなあとわたしが涙を流す。でもその涙は不誠実さそのものじゃないのだろうか。惰性で、怠惰で、不真面目な思考回路の末の涙。だから私は拙くても言葉にしたいね。あなたはどうか知らないが、わたしは出来うる限りの手を使ってわたしを表現したいよ。そして自己を映し出す手鏡であなたのことを見たい。

 

 

「大切なのは、あなたが泣いたり笑ったりしていることではなくて、泣いたり笑ったりしているのが、誰でもなくあなただということなんだ。」

知識が私のコーヒーを美味しくする

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わたしの好奇心は愛ゆえだということ。

知らないでいいことなんて何もないのだ。

 

背景や価値観、考え方を聞いてその人のことをもっと好きになるみたいに、知識はコーヒーを美味しくする。歴史を知って初めて、ヨーロッパの街並みの美しさや、由布岳雄大さに本当の意味で気づくことができる。

 

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より(...)頭の中のほうが広いでしょう」

と、夏目漱石が書いていて、私は私の物語を頭の中で書き上げたい衝動に駆られる。

 

世界はとてつもなく広くて、果てしない。その果てのない世界は、私達の頭の中の知識と想像力によってのみ、綺麗な円を描くことができる。貪欲に知識を求めることは、豊かに生きることだ。豊かな脳内を持つこと、持とうとすることが私の生きる意味。

わたしは人間だから深夜にアップルパイを焼く

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わたしはもう立派に大人な19歳だから夜中にアップルパイを焼いちゃったりする。わたしのためだけの20gのバター、グラニュー糖、シナモン。一玉298円のりんご。嗅覚も味覚も、もうとっくの昔に死んでしまってるんだから、なにも感じ取られやしない。でも、別にそんなこと構わない。りんごの酸味が分からなくたって、バターの香りが嗅ぎ取れなくたって、人間はアップルパイを焼けるんだよ。砂糖を入れすぎて、頭痛がするほど甘いアップルパイ。きみが欲しいっていうけど、あげないよ。わたしのだから。

「イースターエッグ」的アイデンティティ

 

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photo by わくらば

 

   夏目漱石の説く、上滑りの近代化によるアイデンティティの喪失。これは明治維新で西洋化を余儀なくされた当時の人々だけではなく、現代人も抱えている課題である。

   現代を生きる人々が懸命に磨きをかけ、きれいに塗装しているのは内的な核となる部分ではなくて、外側の殻だけではないのだろうか。中身のない卵をカラフルに色付けたイースターエッグみたいだ。高校でも大学でも、どこでも、人はみな、誰かに迎合しようと必死である。他者の目を通じてしか己を認識できないために、常に外観ばかりを充実させようとしている。就職活動でも、大学で学問をするときでも、人前で自分の夢を語るときでさえ、誰かに求められる自分でありたいと願ってしまう。

   人は自身の内面とゆっくり向き合い、己の精神の居場所や、欲求に耳を傾けなくてはいけないのだ。経験や学問、知識は自身の内面を豊かにするために身につけるのであって、社会に迎合するためでは決してないのだということを今一度思い出すべきである。そうでなければ、私たちの人生は永遠に上滑りをし続け、地面に両足をつけてしっかりと立てないままに幕を閉じてしまう。

   だからこそ、自己本位に生きたいと私は思うのだ。人間は思考を停止してはいけないのだと強く思う。生きている限りどんな小さな選択にも責任が伴う。だからこそ私たちは自身の物差しで物事を判断し、己の精神の声を聴かなくてはいけない。価値観は常に変化し、時には間違うこともある。しかし、考えることをやめることは、より良く生きることを放棄することに等しい。人間は生きている限り哲学というものをし続けなくてはいけない。小説は、一見すると無謀にも無駄にも思えてしまうこのような人間の試みに声援をくれる存在であるのだと私は信じたい。

 

 

 

ワタシヘ

偉そうなことを綴っている暇があるなら、課題をやれ、馬鹿者よ。

ワタシより