飾らないワタシの地味日記

道端に捨てられた詩を拾います。(20)

文字への過信 殺人事件

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文字に対する圧倒的な信頼が、わたしを文学から遠ざけている気がする。

 

「文字に対する圧倒的な信頼が、わたしを文学から遠ざけている気がする。」

 

と書けば、それだけで全てが伝わると感違ってしまっている。伝えたいことだけを殴り書いても、伝えたいことは何ひとつ伝わりはしないのに。たった一行を伝えたくて300ページの小説を書き上げる彼女たちのようにならなくては。そうでなければ、それだけのことをしなければ、あなたに、何も伝えることなどできないのだ。いや、300ページ書こうが、950ページ書こうが、2000ページ書こうが、全てを伝え切ることはできないのだ。並行する感情、矛盾する温度、存在しない存在、枯れない草木、沈まない日没、そうしたものをどうして簡単に簡略に伝えられるなんて傲慢が許されるのか。いけない、こんなことではいけない。わたしの人生の発露としての思考が、わたしの思考の発露としての人生が、こんな文字なんかで象れないこと、それをもっと、もっと深く理解しなくてはいけない。

 

 

友人へ

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あなたがハタチを迎えて、わたしは、誰よりも熱烈に優しくおめでとうと言いたい。本当はあなたの目の前で、小さな花束を渡しながら「誕生日おめでとう」と言ってあげたかった(スターチスなんかはぴったりだね、花言葉もとても素敵だから)。けれどもわたしは、あなたの眠る時間に朝を迎えてしまうのだから、一緒に朝日を浴びながら背伸びすることも、朝食のトーストをわたしが焼いてあなたがスクランブルエッグを作ってくれるようなことも、そして、目の前であなたの12月24日を祝うなんてことも叶うことができない。それはとても悲しい、心や瞳や唇が凍ってしまうほどにつらい。でも、それでも、わたしたちが違う時間を、気温を、天気を生きているということは時として温かなココアのような優しさをわたしたちに与えてくれる。あなたがクッキーを焼いたことも、パスタを食べたことも、お風呂に入ったことも、引っ越しをしたことも、ぜんぶぜんぶ特別になる。あなたが、あなたのありのままを表現してくれるから、寂しいけれど寂しくないと思える。たとえ、時間が同じで、気温も天気も共有していたとしても、わたしたちのリレーションシップは決して変わらなかったろう。けれども、この距離が、たまに襲いくる寒さが、わたしたちを近づけて、このリレーションシップをより強固にしているんだとわたしは信じたい。見えなくても、触れることができなくても、愛が存在して今日も世界を照らしているみたいに、わたしたちの名前のつけ難い優しい関係も夕陽なり満月なりに形を変えてしっかりと存在している。わたしの伸ばした手を、掴んでくれたのがあなたでよかった。高校生はとてもつらい時間だったけれど、あなたがいてくれてよかった。今もこうして互いを鼓舞し慰め叱り合う相手が他の誰でもなくて、あなただということ、わたしはとても幸せに思う。生まれてきてくれて、ありがとうね。昨日も今日も明日も明後日も、ずっとずっと愛している。

「人間は素質だけで何かやれるわけじゃないから」

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「人間は素質だけで何かやれるわけじゃないから」

 いつか私にぴったり合う魂の片割れみたいな人が現れて、補うようにして友達になったり、恋人になったりするんだと思っていた。いや、今でも少しはそう祈っている。

でも私たちは、相性がいいという事実だけでは友人をやれないし、恋人もやれない。阿吽の呼吸が成立しても、相手の思うことが手にとるように理解できても、それだけでは足りないのだ。備わった素質だけでは強固な信頼を結ぶことはできない。それだけでは踏み込むことのできない暖かな森林を、私たちは心の奥に宿している。単純な同衾や中身のない対話やらのもっとずっと奥にそれはある。そして、人を愛するとは、愛されるとは、その森林に立ち入る勇気があるかどうかだと思うのだ。キャッチボールの軌跡のように、互いの森林を一筆書きで繋ぎ止めてゆく、縫い合わせてゆく、そういう感覚が愛だろう。愛情の吐露によってこそやっと、互いの好意は掛け合わされて愛情になる。

 

 この世界にどんなに相性がいい人がいたとしても、それだけでは不十分。私とあなたが横に並ぶだけでは不十分なのだ。私たちは互いに興味を持たなくてはいけない。昨日食べたシチューの話とか、朝日が登ることとか、読みたい本とか、そういうのを淑やかに積み上げて、繋げ合わせて、友人になる。ひるがえって言えば、相性はただ出発点のハードルを下げるだけなのだから、そんなに重要ではないのかもしれない。 

 

なんにせよ、私にはやはり年月が必要なのだと思う、人を大切に思うには。だから今日も好きな人に好きだと言って、愛してると言って、そうやって生きていく。

眠たい

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大学2年生は眠たい時間だった。立ち上がって歩き回っている時間よりも、微睡み、深い眠りに落ちていく時間の方がずっと長かった。起きていると自覚する時間はあまりにも短く、意識を放り投げて深く、とても深く眠った。夜はあまりにも甘美で、とろとろとした暗闇がわたしは好きだった。誰もが横たわり、ぐっすりと眠っているのだと思うととても安心して眠れないくらいに幸せだった。おかしな話だ。わたしは昼間にばかり眠り、夜になると世界中の人々の寝顔を見るためにむっくりと起き上がった。起きている間にどんなに悲しいことがわたしを襲っても、眠りはいつでも暖かだった。悲しいと思う前に眠り、寂しいと思う前に眠り、怒りが喉を震わせる前に眠った。恐ろしい感情から逃げるようにして、わたしはベッドに潜り込んだ。意識がないこと、なにもないこと、どうやらそれがわたしの幸福らしかった。苦味のきいたこっくりとした珈琲を飲むときよりも、いちごのショートケーキを小さく切り分けるときよりも、眠りに入る前のあの一瞬の方が幸せだと思った。食べることも歩くことも放り出して、ずっとずっと眠っていた。なにも得ないかわりになにも失わず、そうして私は新しい春を迎えた。

時代遅れとて

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逃げ恥が好きだという話

わたし自身がすごくいいドラマだと思って見終わったから、SNSで批判している人の意見を、なんだか心が狭くて嫌だなあ、と避けてしまっていた。でも、「みくり平匡の子供が生まれて泣いてる沼田さんに「僕らには僕らの幸せがありますから」って声かけるパートナーとか、百合ちゃんの「子宮使わないまま終わっちゃった」発言も、出生を絶対善として見た言い方で、子供がいなきゃそんなにダメなのか?という感じでバイアスを感じた」っていうツイートをたまたま読んで、わたし、間違っていたんだな、と気がついた。脚本家の野木亜紀子さんも原作者の海野つなみさんも、こんな未来になればいいな、みんなが優しくあればいいなって思って、作品を作り上げたのだろう。細いところにも気を使いながら、誰も傷つけないように、それでいて今の社会問題を再考する機会を視聴者に与えられるように。そうして出来上がった作品に対する批判はきっと、「冷たい」人が、「夢のない」現実をつらつらと綴って出来上がったものではなくて、そうじゃなくて、これは「期待」なのだ、と思った。何の配慮もない作品を見たときには言いづらくて、吐き出されなかったもやもやも、この作品なら拾い上げて包み込んでくれると思って、みんな期待をしているんだ。わたしはまだ若い、だからバイアスに左右されないと勝手に思い込んでいた。でも、知らぬ間に、人の幸せになりたいという期待を、冷徹な悪口とはき違えていた。わたしにも気づけない他人の叫びが、この世界にはある。「みんな違ってみんないい」じゃ解決できない問題が山積みだ。それでも、わたしは、優しくなりたいと思う。わたしもみんなも幸せであればいいと思う。だからもっと、敏感にならなくては。どんな人の悲しみも喜びも拾い上げられようになりたい。

わかりやすく、と

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言葉の情報を伝えるための道具としての機能ばかりが強調されすぎていると感じる。
日々、誰かに何かを伝えるために言葉は紡がれているし、意味の見出しづらい言葉の並びに 対する人々の視線は冷たい。プレゼンでもレポートでも、Twitter でも、インスタのキャプシ ョンでも、大切なのは伝わりやすさです、という圧力に押しつぶされながら我々はカタカタ と文章を書いている。そんな言葉の使われ方に対して私はどうしても歯がゆさを感じてし まう。意味だけを追求した言葉は誰にとってもわかりやすいけれど、言葉にできることはま だ他にもあるはずだ。メールの定型文や連絡事項の羅列だけではなくて、言葉には我々をも っと自由にしてくれる力が備わっていると思う。簡潔な文字列だけでは拾いきれない小さ な凹凸を表現できるだけの可能性がそこにはある。
意味だけを追求して余計な部分を取り除き「うれしい」とか「好き」とか「孤独」とかい う、簡単で分かりやすい言葉に感情を言い換えたとき、他人に伝えることには役に立つが、 自分と向き合うことはできない。単純で分かりやすい言葉に変換されたそれらは、本当にそ の言葉通りの気持ちだったのだろうか。本当はもっと豊かで深くて生き生きしていたので はなかったか。
だからこそ私は、我々がもっと自由に言葉をつかえたらいいのに、と思う。画家が透明の リンゴを描くみたいに、彫刻家が人間に羽を生やすみたいに、言葉と言葉を自由につなげて 誰に伝わらなくてもいいから自分の思うそのままを言葉にすることができたなら、我々は もっと自分の感情や考えに肯定的になれるはずだ。自分には自分だけの言葉があってもい いのだということを伝えられれば、と思う。

ゼミの志望理由書

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「かわいい」「かっこいい」「おとなっぽい」という形容詞では象ることのできない細かい凹凸が人間にはあって、そうした小さな違和感を拾い上げてくれるのが文学だし、詩作であればいいのにと思う。資本主義社会で、みんながみんな、上を向け、立ち止まるなと叫ぶけれど、たまにはしゃがみ込んでしまったっていいじゃないかと私は思う。立ち止まって、考える時間があったっていいし、コーヒーを淹れたり、花を愛でて過ごす火曜日があったっていい。それなのに機械のようにモノを喰らい、働き、眠る私たち。量産されていると感じる。自分だけの美しさや、可愛らしさは切り落とされて、後付けのえくぼとか二重瞼がスタンプされていく。本当にすきなひとは他にいるのかもしれないけれど、仕方がないから2番目にすれ違った人と結婚をする。そうやって老いて、動けなくなった頃に、本当は私ピンクじゃなくてグレーが好きだったし、アメリカに行くよりもキリバスに行きたかった、とか嘆いたって、来世に期待ですね、と言われてしまう。私は今世で幸せになりたいし、どうせなら私だけが好きなものを棺に入れて焼かれたいと思う。でも今の私は、ただのハタチの小娘なのだし、丸腰で頭も悪い。社会とか、大人とか、お金とか、もっともらしいそれらに絡み取られて担ぎ上げられて、結局ショッキングピンクの棺にいれられてしまうかもしれない。だから学問をしたいと思った。生きていくこと、牛や魚を殺して自分だけ生きながらえるということや、私が好きだと思うものを大声で叫ぶことに、自分なりのロジックが欲しい。

世界は目に見えないし、「かわいい」も「かっこいい」も「おとなっぽい」も触れることができない。だから私は、私だけの物差しを常に持っていたい。そしてそれを日々更新していけるだけの優しさを備えていたいと思う。そのために、学問をして、知識を得て、思考する力を養いたい。そしてそれを武器にして、私は私として生きたい。

 


いつか小説が書きたいし、だれかの切り落とされてしまいそうな個性を拾い上げられるような文章が書けたらいいなと思う。そのためには、小説ばかり読んでいては不十分なのだとつい先日気が付いた。いい文章を書ける人は、様々なメガネで世界を見ることができる人だ。そのメガネは受け継いだり、買い取ったりすることができない。自分で培い、育てなければならない。今まで生きてきた人、今生きている人の考えていることをなるだけたくさん吸収して、自分だけの世界の見方を作れればきっといい文章を書けるはずだ。人が苦手で、愛想もないが、ともに学問をする中で、考えることが好きな人たちの頭の中を垣間見れたらいいなと思う。